2007年06月10日

「常識」の捉え方

 旧知であるK社長のお母上が亡くなられたとの知らせを受け、通夜に行って来ました。恒例により、そのお母上の在りし日のエピソードが語られました。
 戦争直後の結婚で、夫となる人が出征していたため、事前には一度も顔をあわせることなく、終戦を待って夫婦となられたそうです。その後、夫の開業を手伝いながら、死にもの狂いで働き、子供たちは「いつお母さんは寝ているのだろう?」と不思議に思ったという話が胸にズシンと響きました。

 当時はどこの家庭も、似たり寄ったりの生活であったろうと思われます。そんな話を聞きながら、ふと「常識」という言葉が頭に浮かびました。当時は、どこの家庭もそんな生活が「常識」であり、子供たちも家事や家業を手伝うのが「常識」だったと思います。かく言う私も、そんな経験者の1人です。
 そんな生活でも、皆それなりに将来に夢を持ち、「自分は不幸だ」などと考える人は少なかったのではないか。いや、そんなことを考える余裕もなかったというのが実情かもしれません。

 翻って現代をみると、身の回りにはモノがあふれ、店は24時間照明がついており、テレビはおろかインターネットで海外からも買い物ができ、小学生までもが携帯電話を持っている世の中です。
 高校や大学へ行けるのは限られた人だけだった当時とは異なり、今は、行きたくなくても大学に入れる状況にあります。
 そして、フリーターやニートなど、当時は存在しなかった状況も出現しております。当時の人の眼には、「何とぜいたくな、だらしない生き方なのだろう」と映るかもしれません。 

 しかし、これが「今の常識」なのです。手元の辞書(辞林21)によれば「常識」とは、「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力」とありました。英語ではcommon senseといいます。「共通の感覚・意識」ということです。
 しかし今、「常識は人によって異なる」などと言う人もいるくらいで、「共通の」という部分がどんどんそうではなくなってきたように思います。
 ひと頃までは、学校を出た子供が「フリーター」などと言って家でぶらぶらしていたら、親は恥ずかしがったものでしたが、今は誰も驚かなくなりました。

 時代が変われば「常識」も変わるということです。そしてこの「常識」と言われるものは、必ずしも「好ましい」という意味ではないということがわかります。考えてみれば、終戦直後の「常識」も、その当時の人々はそれが「好ましい」とは思っていなかったはずです。
 ただ、当時は、その「好ましくない常識の状態」から抜け出そうと、今よりも必死に努力したのではないでしょうか。
 つまり、ある時代における「常識」とは、「打破していくべきもの」なのかも知れません。ところが現代では、「常識」を打破すべきものとして捉えなくなったところに、閉塞感が漂っている理由があると言えるような気がします。


posted by のほほん at 23:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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